北白川天神宮

氏子の歴史―
                                      西村誠一

今日、氏神とか鎮守神というときは、ある一定の地域内の住民たちが、その地域内にある神社を指していうことが多い。神社の側からいうと、住民の意志如何にかかわらずこの地域内の住民たちが「氏子」であり、その地域を「氏子地区」としている。そのため、最近は信教の自由も相まって、一部住民と神社側との間でトラブルが起こったりしている。
 しかし我々は、「氏神様へお詣りに行く」とか、「きょうは鎮守さまのお祭りだ」といって、神社との縁は無意識のうちに何らかの形でつながっている。(岡田米夫『日本史小百科1 神社』 近藤出版社 昭和六十年より引用、一部改変)。

産子から氏子会へ

古来、白川村は山中を越えて近江坂本に通ずる街道に沿って北東から南西に細長く発達した集落であり、江戸時代以後は乗願院を北端として、上之町・宮本町・中之町・薬師町・分木町、西端を下之町とする六ヶ町で構成されていた。(※藤岡謙二郎『北白川の風土・歴史的環境と現状』(『北白川百年の変遷』所収 昭和四十九年)によれば、乗願院所蔵の過去帖に「川原町」という町名もあり、これを含めて七ヶ町とされている。)これら村人の全てが産子(うぶこ=同じ産土神を奉ずる氏子)であり、壱・貳・参のいずれかの鉾仲間(後述)に属していた。大正七年(一九一八)、白川村は京都市に編入されたが、昭和初期までは旧農村というべく、六ヶ町の住民が鉾仲間であることを誇りとしてその組織を維持し、産子として天神宮を崇敬してきた。
 昭和九年(一九三四)、土地区画整備事業が開始され、白川通・御蔭通を根幹とした住宅地の基礎が整備されて以来、徐々に進んでいた農地の宅地化は戦後急速に進んでいった。それに伴い人口の増加も著しく、都市化された白川村は「キタシラカワ」とよばれる新たな住宅街へと大きく変貌していった。
 旧白川村六ヶ町の産子を対象に執行されてきた祭祀は、昭和三十八年(一九六三)頃から、さらに大きく発展した北白川学区三十八ヶ町の住民を対象に、新しい地域社会に相応しい「氏子会」が組織された。

天使大明神

平城京(奈良)に都が遷された頃(八世紀前半)、ここ北白川の地には既に有力な氏族が居を構えていたことが、遺跡の発掘調査によって明らかにされている。
 平安京に都がめられると、京に移り住んだ貴族たちにとって東山山麓は山荘を営むに恰好の地であった。近江坂本に通ずる重要な街道に接していた久保田の森(現北白川久保田町宮前)もこうした山荘の一つだったと思われる。ここに祠を建て、創始以来、守護神として少彦名命名を「天使大明神」(天使社)と称して祀り、里人の鎮守の神としての信仰を蒐めていたという。

千古山への遷座

伝えるところによると、文明十四年(一四八二)二月、室町幕府八代将軍足利義政公が東山殿(現時の銀閣寺)造営に当たり、その往還に際して久保田の森にさしかかったとき、にわかに乗馬が嘶き蹄を立てて進まなくなった。家臣に調べさせたところ、この森にあらたかな神を祀る祠があることが判り、その神威を感じて王城鎮護の神として東北の鬼門にあたる現在の千古山明神の森(現北白川仕伏町)に遷座し奉ったという。
 そして新たに祀られた「天使大明神」は、地域社会の守護神・白川村の産土神として里人の崇敬をめ、全村民が祭祀に参与した。

(※遷座時期については、寛正年間(一四六〇〜六六)、或いは明確に寛正四年(一四六とした年記もあるが、いずれも根拠は不明である。)

照光院宮と天神宮

「元和五年、後陽成天皇乃弟輿意法親王時の幕府に請ひ照高院を白川村外山(現仕伏町)の地に再建す。寺領壱千石を領す。徳川秀忠伏見城の二の丸松丸殿を移す、御紋章雪輪を用ひ、照高院雪輪殿と云ふ。」(白祐〈西村祐次郎〉『照光院宮(旧北白川御殿)』(『愛郷第十二号』所収 北白川愛郷会 昭和四十六年)
 以来、照高院宮歴代法親王は天使大明神を守護神として信仰せられ、例祭には必ず神饌を供えられたという。第五代道晃法親王は特に崇敬篤く、寛文年間(一六六六〜一六七二)に天使大明神を「天神宮」と改号、宮家の御祈願所とされた。同十三年(一六七三)八月には石製の大鳥居を奉納、これに「天神宮」の御染筆神号額を掲げられた。また里人にも鉾仲間を組織させ、祭祀の法式を定めこれを伝授指導されるなど、天神宮の神事に大いに力を注がれたことが窺える。
 明治三年(一八七〇)、照高院の末代となった院主、智成法親王が北白川宮と改称されたが、明治五年(一八七二)一月、一七才にして御逝去された。後嗣として兄宮が北白川能久親王となられたが、東京に移られた後、明治八年(一八七五)夏、宮家の堂舎諸殿悉く撤壊された。
 元和五年(一六一九)、興意法親王が白川村外山に照高院を再建されて以来二百五十年、天神宮は歴代法親王の御祈願所であったが、その任を離れ、今はただ里人の祭祀を行うのみとなった。当時の里人は東京奠都の現実を如何に感じたであろうか。

剣 鉾

剣鉾の起源は平安時代の祇園御霊会の鉾に由来するといわれ、悪霊を鎮めるための呪術的な神器である。基本的な形態は、剣(両刃)・飾・神号額と受金・棹・鈴・吹散(ふきちり)の六点から成り立っている。
 北白川に最も古くから伝わる剣鉾は「黒鉾」と呼ばれ、後小松天皇の御代(在位一三九二〜一四一三)、御所造営の折、白川の里人が奉仕したことにより御所から下賜されたという由緒をもつ。中茎(なかご=柄に納まる部分)には「延喜八年八月十三日」の刻銘がある。当時の里人は由緒ある「黒鉾」を村の共有の宝物とし、祭礼にはこれを押し立てて随行したものと思われる。
 
   (※「黒鉾」の刻銘「延喜八年八月十三日」(九〇八)は御霊会が盛んに行なわれた時期と符合し、製作年代とする意見もあるが、断定するには今後の調査研究が待たれる。)

鉾仲間
北白川天神宮の旧産子には「剣鉾」を奉載する三つの仲間、壱之鉾・貳之鉾・参之鉾があり、これを「鉾仲間」と称している。鉾仲間は地域的組織ではなく、血族・姻族が産土神を中心に組織された「宮座」であり、神事祭礼の運営奉仕をする。これに属する家格を「鉾仲間株」といい、今日まで受け継がれている。

鉾仲間と
その剣鉾の由緒
 壱之鉾 御所より下賜された「黒鉾」を奉載し、最初に創立された鉾仲間である。守護神は八幡宮、剣鉾の錺は薙刀に三蓋松、中央に神号額と兜の拵物を掲げる。兜は第四代将軍徳川家綱公(在職一六五一〜一六八〇)の武を象徴している。
 貳之鉾 道晃法親王が天神宮と改号され宮家の御祈願所とされた寛文年間頃、摂社に加茂社が祀られたときに組織されたと伝えられる。守護神は加茂社、剣鉾のは葵に菊、中央に神号額を掲げる。葵は徳川将軍、菊は照高院宮を象徴している。
 参之鉾 貳之鉾が創立して間もなく、摂社に春日大明神が祀られたときに組織されたと伝えられる。守護神は春日大明神、剣鉾は紅葉、中央に神号額と鹿の拵物を掲げる。鹿は春日大明神を象徴している。

  (※前記の由緒から鉾仲間の創立時期を推定すると、壱之鉾は家綱公在職の慶安四年(一六五一)から遅くとも寛文十三年(一六七三)までの間、貳之鉾は寛文十三年前後、参之鉾はそれ以降としても、摂社加茂社と春日社の完成時期の差程度と考えられる。これらのことから、「天神宮」の宮座体制は江戸時代前期(十七世紀中葉)に整えられたのであろう。)

鉾仲間の十六人老分

天神宮の神事祭礼に特別の権力を有し奉仕運営する一六名の長老を「十六人老分」といいわれ、その高席へ入る順番は出生時の厳然とした手続きが必用とされている。
 鉾仲間に属する「家」に生れた男子は、家族の届出(氏名・生年月日)によりまず「背中別帳」という席順名簿に登録される。生年月日順ではなく背中台帳に登録された順によって老分衆となる順番が決定されるのである。したがって、昔は男子の出生となれば役場は後回しにして、とにかく「壱番尉」(後述)の家へ走るという。この制度を「交り子」といって、十六人老分の後継者を維持するのである。
 十六人老分は背中別帳に登録されている順序に従い、最上位者を壱番尉(壱和尚・壱老)と尊称され、以下、弐、参、四・・・となる。壱番尉から六番尉までの上席六名が神事の重要案件を採決し、十六人目は「使い番」と呼ばれ、鉾の神事祭礼に関する一切の用事を受け持つ。
 十六人老分に欠員が生じたときには次席者から繰り上げられ、絶えず十六人の定数は満たされている。この「十六人定数」という根拠は、照光院宮の御紋章である雪輪菊の一六弁に因んだものである。

老分になるまでの役目

背中別帳に登録されている者は、祭礼に際して順次、神事の役に就く慣例になっている。最初の役は「鉦摺り」(かねすり=太鼓に合わせて鉦を囃す)で、十四・五才頃に廻ってくる。次年度は「吹散持ち」といって、鉾差師が剣鉾を差すときに吹散を持つ。
 三年目は大役の「当人」である。当人は「鉾」の神事及び十六人老分に奉仕する当番の役目である。当人の人数は鉾によって異なるが二人から三人で就く。その内、老分として上位の家が「当番宿」を勤め、この家を「当家」という。鉾の神事は全て当家において行われるので、他の当人及び家族は共同して勤める。
 当家においては神幸祭の前日、早朝より老尉十六人が集まり、鉾立て・提灯立て・床飾りを行なう。神饌の高盛御本膳の材料は当番の手でこの日までに取り寄せておき、十二、三人の御膳盛(盛方衆)の手で、この日から夜を徹して調整が行われる。

高盛御本膳

神幸祭当日早朝、高盛御本膳献饌の儀式が行なわれる。献饌の列は、当人が麻木を持って先頭に立ち、選ばれた三人の女性がそれぞれ神饌を頭上に戴き、御膳盛が介添えしてこれに続く。萬世橋前の踊場に一旦勢揃いし、萬世橋を渡って進み、設えた祭壇に供える。
 本来、この儀式は十六人老分の代表が執行すべきものであるが、諸事情により困難になったため、昭和三十八年に組織された「北白川伝統文化保存会」によって継承されている。
 神幸祭及び幸祭の当日、十六人老分は全員当家に招待され、直会の儀式が行なわれて、鄭重に応されることが慣わしとなっている。やがて神輿渡御の時刻に合わせて座を立ち、一同打ち揃って剣鉾に随伴、神輿に供奉する。

御神霊奉遷

 御旅所を出た神輿は千古山明神の森の山上拝殿に据えられ、本殿から御神霊を神輿に奉載する。山を降りた神輿は氏子区内を巡幸して御旅所に奉安される。しかし現在ではこの神幸祭での神輿渡御はなく、御羽車によって「御神霊遷し」が行なわれ、十六人老分と氏子会役員が列席して御旅所に奉安するのみである。
 この日から御神霊は還幸祭まで御旅所に滞在されることになるので、この間、各講社中が御神霊をお護り第一夜「待兼講社」、第二夜「天神講社」、第三夜「日待講」(以前は六ヶ町が交替でお守りしていた)の社中の方々がお守りしている。還幸祭の前夜が宵宮で、氏子会が「万燈会」を奉納している。以後「万燈会」は、若中会(平成二年/一九九〇〜)、神社役員(平成十一年/一九九九〜)によってお世話されている

神輿渡御

還幸祭で神輿は御旅所を出て氏子区域を渡御される。昭和六十二年の神輿巡幸列は次の通りであった。【御神号旗−壱之鉾−弐之鉾−参之鉾−稚児列−白川女−子供神輿−神官−太鼓と鉦−鉾差−神輿−宮司−総代−役員】
 夕暮れになると、神輿は屋根と胴一杯に提灯が点けられ、篝火に映えて高い石段を登り、拝殿に据えられる。打ち鳴らした太鼓を止め、境内の電燈を全て消し、浄闇の中で厳かに御神霊が本殿に還御される。静寂を破る合図の声で神輿は再び山を降り、御旅所で何度も名残りを惜しんだ末に神輿庫に納められ、大祭の幕が下りる。

若中会復活までの概要

江戸時代以来、三五〇貫(約一三〇〇kg)という大きい神輿を北白川六ヶ町の若中が本殿まで石段百三十三段を舁いて登り、また氏子区域を巡幸していた。「若頭」を上之町と下之町から二名、他の四ヶ町から各一名、計八名が神輿の全責任を持ち、「取締」が全般を指揮して執行していた。
 戦中〜戦後にかけて神輿渡御はしばらく中止していたが、昭和二十三年(一九四八)に一旦復活していることが旧写真によって確認できた。そして昭和二十七年(一九五二)八月中旬、大前愛之助氏・倉貫慶三氏の二名が発起人となり「若中会」が結成された。
 しかし四十年代に入ると、徐々に舁き手が不足してきたことやサラリーマン化による力不足などにより、重い神輿を人力のみで舁くことが困難になったため、昭和四十五年(一九七〇)、台車に載せて巡幸することとなった。これには一長一短があった。つまり、神輿は出せたが、台車に着いて歩くだけでは不興を招き、これが若中の足をさらに遠ざける結果となった。そして昭和四十六年(一九七一)の祭礼では、さらに追い討ちをかけるように雨天が災いして居祭(神輿巡幸中止の祭礼)となった。これを機に若中会は自然消滅し、昭和四十七年(一九七二)以降は、トラックに神輿を載せての巡幸となった。
 しかし、北白川天神宮の「火の祭典」を望む氏子の聲に応え、昭和五十七年(一九八二)、新しい神輿が造られ、全道中は元より山上へも担ぎ上げられた。この神輿巡幸が復活したことは多くの学区民にとって記念すべき盛事であった。
 そして、翌五十八年(一九八三)、「若中会」は遂に復活を成し得たのである。





〔註〕本稿は、故西村誠一氏の未発表原稿(昭和六十二〜六十三年頃執筆か?)を基に補筆・添削を行ない編集したものである。

一、全体に関連文献を再点検のうえ補訂し、※印括弧内には相違説及び私見を補筆した。
二、「若中会復活までの概要」では、最近の聞き取り調査及び資料確認で判明したことを多く加筆
  した。

三、出典が不明な史料は削除した。
四、旧漢字及び文言の一部を現代表記に改めた。

(堀内寛昭)

《参考文献一覧》

出雲路敬直『剣鉾』(『八大神社御鎮座七百年記念誌』所収 平成四年)

『史料京都の歴史 第八巻 左京区」(京都市 平凡社 平成六年)

『北白川天神宮御造営記念誌』(北白川天神宮社殿修復奉賛会 昭和六十三年)

吉村新一郎『北白川天神宮の変遷』(愛郷第二十六号 北白川愛郷会 昭和六十年)

吉村新一郎『郷土の歳時を顧みて』(愛郷第三十八号 北白川愛郷会 平成十年)

吉村新一郎『黒鉾奉載乃歩み』(北白川壱之鉾資料 年記不詳)