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北白川天神宮 |
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| ―氏子の歴史― | |
| 西村誠一 | |
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今日、氏神とか鎮守神というときは、ある一定の地域内の住民たちが、その地域内にある神社を指していうことが多い。神社の側からいうと、住民の意志如何にかかわらずこの地域内の住民たちが「氏子」であり、その地域を「氏子地区」としている。そのため、最近は信教の自由も相まって、一部住民と神社側との間でトラブルが起こったりしている。 |
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| 産子から氏子会へ | |
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古来、白川村は山中を越えて近江坂本に通ずる街道に沿って北東から南西に細長く発達した集落であり、江戸時代以後は乗願院を北端として、上之町・宮本町・中之町・薬師町・分木町、西端を下之町とする六ヶ町で構成されていた。(※藤岡謙二郎『北白川の風土・歴史的環境と現状』(『北白川百年の変遷』所収 昭和四十九年)によれば、乗願院所蔵の過去帖に「川原町」という町名もあり、これを含めて七ヶ町とされている。)これら村人の全てが産子(うぶこ=同じ産土神を奉ずる氏子)であり、壱・貳・参のいずれかの鉾仲間(後述)に属していた。大正七年(一九一八)、白川村は京都市に編入されたが、昭和初期までは旧農村というべく、六ヶ町の住民が鉾仲間であることを誇りとしてその組織を維持し、産子として天神宮を崇敬してきた。 |
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| 天使大明神 | |
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平城京(奈良)に都が遷された頃(八世紀前半)、ここ北白川の地には既に有力な氏族が居を構えていたことが、遺跡の発掘調査によって明らかにされている。 |
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| 千古山への遷座 | |
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伝えるところによると、文明十四年(一四八二)二月、室町幕府八代将軍足利義政公が東山殿(現時の銀閣寺)造営に当たり、その往還に際して久保田の森にさしかかったとき、にわかに乗馬が嘶き蹄を立てて進まなくなった。家臣に調べさせたところ、この森にあらたかな神を祀る祠があることが判り、その神威を感じて王城鎮護の神として東北の鬼門にあたる現在の千古山明神の森(現北白川仕伏町)に遷座し奉ったという。 |
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| 照光院宮と天神宮 | |
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「元和五年、後陽成天皇乃弟輿意法親王時の幕府に請ひ照高院を白川村外山(現仕伏町)の地に再建す。寺領壱千石を領す。徳川秀忠伏見城の二の丸松丸殿を移す、御紋章雪輪を用ひ、照高院雪輪殿と云ふ。」(白祐〈西村祐次郎〉『照光院宮(旧北白川御殿)』(『愛郷第十二号』所収 北白川愛郷会 昭和四十六年) |
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| 剣 鉾 | |
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剣鉾の起源は平安時代の祇園御霊会の鉾に由来するといわれ、悪霊を鎮めるための呪術的な神器である。基本的な形態は、剣(両刃)・飾・神号額と受金・棹・鈴・吹散(ふきちり)の六点から成り立っている。 |
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| 鉾仲間 | |
| 北白川天神宮の旧産子には「剣鉾」を奉載する三つの仲間、壱之鉾・貳之鉾・参之鉾があり、これを「鉾仲間」と称している。鉾仲間は地域的組織ではなく、血族・姻族が産土神を中心に組織された「宮座」であり、神事祭礼の運営奉仕をする。これに属する家格を「鉾仲間株」といい、今日まで受け継がれている。 |
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| 鉾仲間と その剣鉾の由緒 |
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| 壱之鉾 御所より下賜された「黒鉾」を奉載し、最初に創立された鉾仲間である。守護神は八幡宮、剣鉾の錺は薙刀に三蓋松、中央に神号額と兜の拵物を掲げる。兜は第四代将軍徳川家綱公(在職一六五一〜一六八〇)の武を象徴している。 貳之鉾 道晃法親王が天神宮と改号され宮家の御祈願所とされた寛文年間頃、摂社に加茂社が祀られたときに組織されたと伝えられる。守護神は加茂社、剣鉾の錺は葵に菊、中央に神号額を掲げる。葵は徳川将軍、菊は照高院宮を象徴している。 参之鉾 貳之鉾が創立して間もなく、摂社に春日大明神が祀られたときに組織されたと伝えられる。守護神は春日大明神、剣鉾は紅葉、中央に神号額と鹿の拵物を掲げる。鹿は春日大明神を象徴している。 (※前記の由緒から鉾仲間の創立時期を推定すると、壱之鉾は家綱公在職の慶安四年(一六五一)から遅くとも寛文十三年(一六七三)までの間、貳之鉾は寛文十三年前後、参之鉾はそれ以降としても、摂社加茂社と春日社の完成時期の差程度と考えられる。これらのことから、「天神宮」の宮座体制は江戸時代前期(十七世紀中葉)に整えられたのであろう。) |
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| 鉾仲間の十六人老分 | |
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天神宮の神事祭礼に特別の権力を有し奉仕運営する一六名の長老を「十六人老分」といいわれ、その高席へ入る順番は出生時の厳然とした手続きが必用とされている。 |
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| 老分になるまでの役目 | |
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背中別帳に登録されている者は、祭礼に際して順次、神事の役に就く慣例になっている。最初の役は「鉦摺り」(かねすり=太鼓に合わせて鉦を囃す)で、十四・五才頃に廻ってくる。次年度は「吹散持ち」といって、鉾差師が剣鉾を差すときに吹散を持つ。 |
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| 高盛御本膳 | |
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神幸祭当日早朝、高盛御本膳献饌の儀式が行なわれる。献饌の列は、当人が麻木を持って先頭に立ち、選ばれた三人の女性がそれぞれ神饌を頭上に戴き、御膳盛が介添えしてこれに続く。萬世橋前の踊場に一旦勢揃いし、萬世橋を渡って進み、設えた祭壇に供える。 |
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| 御神霊奉遷 | |
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御旅所を出た神輿は千古山明神の森の山上拝殿に据えられ、本殿から御神霊を神輿に奉載する。山を降りた神輿は氏子区内を巡幸して御旅所に奉安される。しかし現在ではこの神幸祭での神輿渡御はなく、御羽車によって「御神霊遷し」が行なわれ、十六人老分と氏子会役員が列席して御旅所に奉安するのみである。 |
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| 神輿渡御 | |
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還幸祭で神輿は御旅所を出て氏子区域を渡御される。昭和六十二年の神輿巡幸列は次の通りであった。【御神号旗−壱之鉾−弐之鉾−参之鉾−稚児列−白川女−子供神輿−神官−太鼓と鉦−鉾差−神輿−宮司−総代−役員】 |
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| 若中会復活までの概要 | |
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江戸時代以来、三五〇貫(約一三〇〇kg)という大きい神輿を北白川六ヶ町の若中が本殿まで石段百三十三段を舁いて登り、また氏子区域を巡幸していた。「若頭」を上之町と下之町から二名、他の四ヶ町から各一名、計八名が神輿の全責任を持ち、「取締」が全般を指揮して執行していた。 |
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| 〔註〕本稿は、故西村誠一氏の未発表原稿(昭和六十二〜六十三年頃執筆か?)を基に補筆・添削を行ない編集したものである。 一、全体に関連文献を再点検のうえ補訂し、※印括弧内には相違説及び私見を補筆した。 二、「若中会復活までの概要」では、最近の聞き取り調査及び資料確認で判明したことを多く加筆 した。 三、出典が不明な史料は削除した。 四、旧漢字及び文言の一部を現代表記に改めた。 (堀内寛昭) |
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《参考文献一覧》 出雲路敬直『剣鉾』(『八大神社御鎮座七百年記念誌』所収 平成四年) 『史料京都の歴史 第八巻 左京区」(京都市 平凡社 平成六年) 『北白川天神宮御造営記念誌』(北白川天神宮社殿修復奉賛会 昭和六十三年) 吉村新一郎『北白川天神宮の変遷』(愛郷第二十六号 北白川愛郷会 昭和六十年) 吉村新一郎『郷土の歳時を顧みて』(愛郷第三十八号 北白川愛郷会 平成十年) 吉村新一郎『黒鉾奉載乃歩み』(北白川壱之鉾資料 年記不詳) |
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